月島ルート
思いがけない場所での遭遇に心臓が跳ね、話しかけようかと一歩踏み出すけれど、そこから動けなくなってしまった。月島係長が、一人でない事に気付いてしまったから。
少しだけ困ったような顔をしながら何かを話している彼の隣には、パーマなのか強い癖っ毛なのか判断に迷う髪をシュシュでまとめた女性が立っていた。楽しそうな顔をして右手で月島係長の腕を引き、ショーウィンドウの中を指差す彼女の左手の薬指にはきらりと光る指輪が見える。
つい今しがた踊るように跳ねていた心臓は、強く握り締められたようにギュッと痛んでいた。
気が付けば私は、自分用のチョコレートを買う事も忘れて売り場から去っていた。自然と早くなる足取りに、息が上がっていく。ドクンドクンと全身が脈打つのがわかった。
百貨店からも出て少し先の横断歩道が赤信号だったので、ようやく私は立ち止まった。そうして、青信号に変わるまでの少しの間、数分前に見た光景を反芻させた。
月島係長、彼女いたんだ。
確か、既婚者ではなかったはずだ。職場の誰からもそんな話は聞いたことはない。それどころか、彼にまつわる浮いた話は一切聞いたことがなかったので、独身で彼女もいない、仕事が恋人というタイプだと思っていた。
でもそうだよね、あんなに素敵な人だもん。彼女くらいいるよね。
外気によって冷まされていく頭が、少しずつ冷静さを取り戻していく。そもそもどうしてこんなに動揺しているというのだ。私にとって月島係長は、あくまでも「推しの上司」というだけで、それ以上の感情なんてなくて。恋愛感情がある訳でもなくて。
だから別に、彼に恋人がいようといなかろうと、私には関係のない事なのだ。
そう言い聞かせるのに、なぜか心はずっと重たかった。家についても、百貨店で見た光景が頭から離れなかった。どうしてだかわからないけれど、涙が止まらなかった。
沈んだ気持ちのまま、日曜日はあっという間に終わってしまった。何故だか昼過ぎに同期の尾形から何通かメッセージが届いていたが、返事をする気力もなくてぼんやりと眺めて返さないままでいた。どうやらあいつは明日から出張に行くらしい。取引先の土産は何がいいと思うだなんて、私がわかるはずもない。こちとら今はそれどころではないのだ。
何をしていても月島係長と彼女の姿が浮かんでは消えないから、もう今日は早々に寝てしまおうと決めた。食欲も沸かなかったので夕飯もそこそこにし、お気に入りのバスソルトを入れてお風呂でゆっくりと温まってからベッドの中に潜り込んだ。
ぐるぐると頭を駆け巡る思考から目を逸らすように瞼を閉じてしまえば、緩やかな睡魔が襲ってくる。それに身を預けるようにして、私はゆっくりと眠りについた。
◆
月曜日に出社して、それぞれの予定表を見て少し安心した。どうやら月島係長は今日は一日外出の予定らしい。なんとなく昨日の今日で顔を見るには自分の気持ちがついていかない気がして、そっと胸を撫で下ろした。
いつもは小言を言いながら絡んでくる同期の尾形も今日はいない。そういえば出張なんだったっけ。結局返してないままだったメッセージの事をふと思い出して、「ごめん気づくの遅かったからそのまま返し忘れてた。出張土産楽しみにしとく」とだけ返した。不機嫌そうな猫のスタンプが返ってきたのを確認してスマホの画面を消し、仕事に取りかかった。
週明けの月曜日は、何故だかいつもより慌ただしい。おかげで余計な事を考える余裕もなく一日が過ぎていった。業務を終えて帰り支度をしていると、先輩の女性社員から声をかけられる。
「ミョウジさん、週末ありがとう。ちゃんと買えた?」
「え? あぁ、はい。先輩のおすすめしてたチョコレート買えました。明日忘れずに持ってきます」
「そう! ありがとう」
にっこりと笑った先輩の顔を見ながら、また昨日見た光景を思い出して心が翳っていった。
バレンタイン当日の朝。私は出社する前に頭を悩ませていた。
女性社員からという体で買ったチョコレートはもちろん持って行くとして、個人的に買った月島係長へのチョコレートをどうしようかと思ったのだ。
元々、これは「推しの上司」へ「日々の癒しへの感謝」として買った、いわば義理チョコのようなものなのである。別に深い意味はない、なかったはずのチョコレートだ。だから、別に彼に恋人がいたって、渡したとしてもなんの問題もない。
そう思いながらも、恋人の存在を知ってからこんなにショックを受けているのだから、それ以上の意味がこのチョコレートにはすでに込められている事にどこかで気付いてしまって、躊躇っていた。恋人がいる人に、そうとわかっていて本命チョコを渡すだなんて、よくない事だと警鐘を鳴らしている私がいた。
散々悩んだ末に、私は月島係長宛てのチョコレートも会社へと持って行った。当初の予定通り、これは個人的な義理チョコなのだと自分に言い聞かせながら。
会社に着くと、幸か不幸かフロアには月島係長しかいなかった。いつも朝が早い彼と、一番に挨拶をするこの時間が好きだった。だけど、今日はどうにも顔が引き攣って仕方がなかった。
「お、おはようございます」
「おう、ミョウジ。おはよう」
精一杯いつも通りの笑顔を作って挨拶をし、自分の席へと向かう。ふと、時計を見てまだ他の人が来るには後少し時間がある事に気付いた。渡すならば、今の方がいいのかもしれない。
数秒の間考えて、私はチョコレートの入った紙袋を持ち月島係長のデスクへと向かった。
「なんだ、ミョウジどうした」
「あ、あの……月島係長……よかったら、これどうぞ」
「ん? ……あぁ、今日はバレンタインか。今年はいつもみたいに大きなやつじゃなくてそれぞれに配る形なのか?」
「い、いえ、その……これは、私から、個人的に、です」
「……うん? 俺にか?」
「はい……」
この間思い描いていた通り、目を丸くさせながら月島係長は私の差し出したチョコレートの袋を見つめた。だけど想像とは違って、ありがとうの言葉も笑顔もなく、チョコレートを受け取る素振りすらなかった。皮膚を破って飛び出さんばかりに跳ね上がる心臓が、次第にキリキリと痛むのを感じる。
「あ、あーっと、その。もしご迷惑でしたら、すみません。係長にはいつもミスをフォローしてもらったりお世話になっているので、個人的に贈りたかったんですけど」
「あ、ああいや。迷惑って訳ではない。ちょっとびっくりしただけだ」
「本当ですか?」
「あぁ、一瞬本命チョコなのかと思ったよ」
俺なんかにそんな訳ないのにな、と月島係長が笑うから、私の胸はまた痛んだ。
「……彼女がいる方に、そんな事しませんよ。それより、このチョコが彼女さんからのものと被ってないといいんですけど」
自分の心に嘘つくようにそう口を開く。少しでも気が緩めば涙を流してしまいそうで、表情に思わず力が入った。
そんな私を、彼は不思議そうな顔をして眺めた。
「……彼女? なんの話だ」
「私、この間見ちゃったんです。月島係長が彼女さんと歩いているところ」
「ん?」
「あ、安心して下さいね。一瞬見ただけですし。会社の人にも余計なこと言ったりしませんよ」
「いや、ちょっと待ってくれ。それはどこで誰といるところを見たんだ?」
「えっと、日曜日に、百貨店で」
「……あぁ、なるほど」
顎に手を当て思い出すように何かを考えていた月島係長は、合点がいったような顔をして呟いた。その一連を眺めていると、フロアに他の社員が入ってきた。
「おはようございまーす」
「あぁ、おはよう。……ミョウジ、ちょっといいか」
「え、あ、はい」
月島係長は私の手から紙袋を受け取り自身のデスクの引き出しにしまうと、給湯室の方へと向かった。私もそれについて歩く。
「ミョウジが見たって人は、髪が癖っ毛の女の人か?」
「えぇと……多分、そうです。パーマなのかわからないですけど、くるくるの髪をまとめた女性でした」
「やっぱりな。あれは彼女じゃなくて、俺の姉だ」
「あ、ね……月島係長、お姉さんがいらしたんですか?」
「あぁそうだ。少し前に結婚した俺の姉だ。そしてあの日、俺は姉の買い物の荷物持ちをさせられていた。両腕にすごい荷物を持たされていただろう?」
「え、あの、そこまでは……」
この数日何度も頭の中に浮かんできた映像を思い出しても、人混みの中で楽しそうな二人の
「残念ながら、俺は彼女がいないからな」
「そう、なんですか……?」
目を丸く見開いたのは、今度は私の方だった。たった一言で気持ちが緩み、同時に緩んだ涙腺のせいで一粒の涙が溢れた。
「お、おい」
「すみませ、なんか、ほっとしちゃって」
「……そうか」
「あ、ほっとするっていうのもおかしいですよね。ええと、あれ私何言ってるんだろう」
慌てて涙を拭って誤魔化すように笑うと、月島係長が目を細めて笑っていた。
「なあ、ミョウジ」
「は、はい」
「さっきのチョコは、義理チョコとして受け取っていいのか?」
「え、と……」
「その……いや、やっぱりなんでもない。セクハラになってしまうな、これは」
彼はその大きな手で自分自身の顔を覆いながら目を逸らした。指の間から見える彼の顔がほんの少し赤くなっているのは、多分気のせいではないだろう。
「……本命チョコとして、受け取ってくれますか?」
振り絞った声でそう言うと、月島係長はまた目を見開いて私を見て、そして優しい笑顔を浮かべて言った。
「ミョウジからのチョコが、本命だと嬉しい」
「……喜んでもらえたなら、嬉しい、です」
「あぁ、美味しくいただく。ありがとうな」
「いえ、こちらこそ、受け取ってくれてありがとうございます」
「……さて、戻るか。そろそろ始業のベルが鳴るぞ」
「はい!」
聖なるバレンタイン。その日、私の憧れであり推しの上司であった月島係長は、私にとって大好きで仕方のない恋人、月島基さんになった。自分用のチョコは買い損ねたけれど、後日月島さんに買ったチョコを二人で美味しく食べたから、よかったという事にしておこう。